青天の霹靂|日常を考えるツールとしての哲学

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「主観と客観の一致」と「人間の客観認識の不可能性の多様性」について

 

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 はじめに|勉強した感覚が残っているだけでプライドだけどんどん高くなる

今の僕の趣味は「哲学」に傾倒しており、日々の実感や経験を伴った内実ある内容の文章を、ここで書くことがなかなか難しいと感じている。

共感してくれる人々も多いと思うのだが、日々の仕事などに関しては「こなす」ことが精一杯であって、なかなか自分や周りのことを対象化して「観る」ということがなかなかできなくなってきている実感がある。

せっかく哲学という人の根源的な課題や問題意識を学びながら日々思考する学問を趣味にしているのに、これではまったく意義を感じられない。

よって、多少無理をしてでも自分の学んだ内容をどうにかして引っ張ってこないと、インプットした情報がアウトプットとして昇華されない。

それだけではなく、なまじ「勉強した」「読書した」という感覚だけは残っているため、実際にアウトプットの精度が向上したり、インプットする目的の達成に近づけているかを問わず、「目を通した情報の多寡」のみによって、プライドだけがどんどん高くなってしまう。

よって、間違いを自分自身で吟味しながら文章を作成するのは本当に骨を折れる作業ではあるが、それが宿命だとでもいうような心持ちで、学んだことをアウトプットする機会を設けたいと考えている。

このブログでは、(予定といたしましては)主に現象学構造主義といった現代思想に関するポストをしていこうと考えている。

また、社会問題など時事的なテーマも念頭に置きながら、究極的には「人はどう生きるべきか?」ということについて、深く考えるきっかけを作っていきたい。それはそのまま「自分はどう生きるべきか?」という深遠な問いの答え、もしくは大きなヒントになると考えている。

想定読者

  • 哲学の入門書などを手にとって読む程度に哲学に関心がある。
  • 社会問題に関心があるが、自分の考えを強く持つ傾向にない。
  • 世の中の悪い側面ばかり見て辟易することが多い。

こんな方には、僕のブログの内容も少しは考えるキッカケになるかと思う。なぜかというと、上記の項目はそのまま自分自身にも当てはまるからだ。

 

 

哲学的な話のまえおき

先に断っておきたいが、僕は「哲学を学んでいる」とはいっても、哲学科の学生として生活していたことはない。

そのため、解説書を書けるほどに詳しいわけでもないし、哲学用語の一つ一つについて厳密に、歴史的な背景や文脈を踏まえた回答やヒントを与えることはできない。

ただ、倫理という側面から宗教や西洋・東洋の思想一般を学ぶなら、山川出版社『現代の倫理 改訂版』と、同じく山川出版社『倫理用語集』をおすすめしたい。

高校の教科書ではあるが、一般的に抑えるべき流れを抑えることができると思う。山川出版社でなくとも、兄弟姉妹などですでに自宅にある人は、それを通読するだけで随分見渡しがよくなるし、僕自身かなり多くの気づきがあった。

そのほかにも、哲学自体への入門書は(必要以上に)読んだことがあるので、他の機会にまとめて紹介したいと考えている。

 

「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」 

19世紀〜20世紀のオーストリアの哲学者・ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』の中で述べられた言葉のうち、僕が哲学に入れ込む前に知った興味を惹く命題がある。

それが「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という一文である。

これは、簡単に言ってしまえば「人が世界を認識する上で先立つものが言語であるわけだから、言語を知らないことには、哲学をすることもできないよね。」ということを言っている。

もっといえば、ウィトゲンシュタインの思想は前期と後期にわかれているため、同一人物であっても同じ結論にはならないという全体があるけれども、ウィトゲンシュタインのこの『論考』時点での帰結としては、語り得ぬことは「そもそも回答などない問いについてはそもそも解決しようがない」ということになっている。

さて、このウィトゲンシュタインの「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という言葉は、僕にとっては「言語の限界が世界の限界である」ということと同義であると理解している。(安直な理解ではあるが)

そのため、人が認識できる自分の考えであったり、イメージであったりするものは、おしなべて言語の壁を越えることができないし、言語にできないものはそもそも語れないわけであり、語れないということは、世界には存在しないものなのだ。

では、ウィトゲンシュタインが言う「語り得ぬもの」とは、どのようなものを指すのか?

ここでは、ざっくりと西洋哲学が命題として脈々と論理を積み重ねてきた「主観 - 客観の一致」という側面から話していきたい。

 

プラトンからニーチェにいたるまでの「主観 - 客観の一致」への回答

古代ギリシャの哲学者・プラトンは、人が「魂への配慮」を通して良い生き方をするために必要な形而上学的な考え方として「イデア論」を説いた。

www.weblio.jp

プラトンのこの論理は当時画期的(であったと思われる)であり、人を「抽象的な事柄を考えるための頭」へと切り替える”着火剤”のような役割を果たしたと僕は考えている。

もちろんプラトン以前から、万物の根源(アルケー)を説明しようとする哲学者が存在した。下記にシンプルにまとめられている。

www.irohabook.com

 

しかし、自然科学的な発想から「世界の根源とは何か?」という命題に答えを見出そうとした古代ギリシャの哲学者は多数いたが、「ある目的のために人がどのように生きるべきか?」というところまで見据えて論を展開したプラトンには、それ以上の衝撃があったのだと、やはり僕は思う。

急ぎ足になるが、プラトンイデア論が最終的にどのような帰結を迎えたのかを解説していきたい。

「人の認識する実世界とは別のところに真実がある」という考え方は、プラトンの二元論から時代が進み、16世紀〜17世紀のフランス哲学者、近世哲学の祖であるルネ・デカルトが『情念論』という著作で提示した「心身二元論」という考え方で大きな世界説明の論理となったと考えている。

ja.wikipedia.org

人の体と精神というものを分けて考え、それら二つの要素が相互作用していると言う考え方は、とりもなおさずその後の西洋哲学の論理においては、「主観と客観の一致」という大きな命題に包摂されることになった。

たとえば、自分を定義するとしたときに、人は「自分の脳みそ」を指し示しながら「これが自分だ」というだろうと思う。僕らはデカルトがいきた時代よりも科学が発展して様々な知見の恩恵を受けているため、「脳の神経が伝達物質を融通することで様々な認識が発生している」ことを知っているからだ。

しかし、「脳の神経が伝達物質を融通することで様々な認識が発生している」のが自分なのであれば、その認識をいかようにもコントロールできる機械に脳みそが直接繋げられていたとしても、それを僕らは認識することができない。

これがいわゆる「水槽の脳」の問題である。

ja.wikipedia.org

つまり、「自分自身」という認識すら「客観的に認識することができない」という視点に立てば、人が客観的に物事を認識すること、ひいては「世界を客観的認識することはできるのか?」という”実存の危機”に立たされることになる。

それだけではなく、「人が客観的に世界を認識することはできない」という問題は、現代でいうところの科学が前提にしている「人は物事を客観的に観ることができる」ということを覆してしまう大きな問題なのだ。

そのため、論理を重視し人々の認識の客観性を脈々と築いてきた哲学者たちは、雑にまとめてしまえばこの「人が客観的に世界を認識することはできない」という問題に対して、答えを与えるべく知を集積してきたと言える。

プラトンが始めた「人の認識する実世界とは別のところに真実がある」という世界の見方は、中世に入り人の実存を脅かす大きな脅威になった。

デカルト以降も、「大陸合理論」と「イギリス経験論」と呼ばれる西洋哲学の二大潮流を統合させた18世紀ドイツの哲学者・イマヌエル・カントによって「人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できないために、ありのままの事物を知ることは不可能である」という帰結によってある程度の回答が得られることはあった。

しかし、デカルトもカントも、最終的には世界の客観的認識は「神の存在証明」にその帰結が置かれていることが特筆すべきことだ。

ja.wikipedia.org

つまり、中世スコラ哲学のトマス・アクィナスが「哲学は神学の婢(はしため)」と哲学を「神学を体系づける意味でのみ、有用な下部の体系である」と説明したところから状況的にはあまり変わっていないように思える。

そのから一線を画したのが19世紀ドイツの哲学者・ニーチェだ。

彼は、「神は死んだ」と言う言葉で有名だが、その通り「客観的な存在を根拠づける神はすでに死んでおり、人の解釈だけがある。客観的実在などというものはなくカオス(混沌)だけがある。」という帰結へと進んだのである。

ここから、西洋哲学がプラトンから脈々と受け継ぎ発展させてきた「主観と客観」という認識は瓦解し、新たな思想が勃興してくる。(ヘーゲルとか入れてないのは勘弁してください。)

 

現象学が与えてくれるヒントと、方法論としての構造主義への欲求

今は現象学フッサールハイデガーサルトル)、構造主義レヴィ・ストロース、ジャック=ラカンミシェル・フーコーロラン・バルト)が哲学の思想潮流である。

しかし、これらは簡潔明快な思想ではないため非常に難解である。構造主義を批判しつつ継承する「ポスト構造主義」と呼ばれる思想潮流も、画一的な構造を持って説明づけられているわけではなく、やはり理解が難しい。

一方で、「主観と客観の認識の一致」の命題は、人々にとってとりもなおさず現代人が無意識のうちにはびこる「誤解」「誤り」「認識の違い」といった日常生活に暗い影を落とす「ひとつ」の原因になっているという点は、ニーチェ以降もあまり代わりがないのではないかと思う。

ここで、僕自身全く消化仕切れていないので恐縮だが、これから「こんなふうに考えて見たい」と言う展望を示すので、読んでくれる方だけ読んでいただければ幸いである。

レヴィ・ストロースは、神話素の分析をソシュール言語学を受け継ぐヤコブソンの音韻論から直観を得る形で大成した。しかし、神話素の分析などの方法論は非常に難解である。

つまり、一般市民が普遍的に利用できるような「方法論」として確立できるような学問としては成立してうない。よって、「主観と客観の認識が一致しないという真実」に対して、人々は共感も理解もすることができない。

現象学は、「独我論的な立場」をあえて採用することで、「主観で捉えられるものだけが世界である」という認識を最初のロジックとして使い、そこから「人はどのようにして人々がその間で『客観的だよね』と捉えられる物事を認識しているか?」という問題に、主観と客観の一致の問題を転換したと考えることができる。

そのため、実存の危機を迎えている人々に対して、「人は客観を認識することは絶対にないけど、でも、客観的だよね」と思えるような事柄が存在し、それを人は認識することができます。」というヒントを与えてくれる。

しかし、「では、その”客観”とは、具体的にどのようなもので、どのような方法論でもってそれを取り出すことができるのか?」という点については、構造を体系の変換として捉えることや体系の相互連関の中で常に変化しつつ変化しないものとして措定することのできるような「神話素」の「素」をどの観点から捉えるのか、それの逆転のパターンや変換のパターンをどのように認識するのかといった点について、詳しく考えていく必要があるように思う。

そうでないと、やはり「客観を客観として認識できない」という事柄から演繹的に発生する社会の諸課題に、哲学が対処することができない。

 

あとがき|人の客観認識の不可能性の”多様性”について

現象学的な観点では、客観とは「その人の認識に依存する形で、『客観的だよね』と言えるような物事が人々の間に存在する」ということになる。

しかし、個々人により認識の差や、それを表現する能力には差があるわけで、そういった個々人の能力による制約が存在するのであれば、「その制約こそ、世界そのものではないのか?」という直観である。

「言葉を語り尽くしても理解されないこと」というのは世の中にごまんとあるわけで、それらは世界の限界であると捉えることができる。一方で、この制約が人々にとって普遍であり共通の条件であれば、(つまり神から与えられたような”与件”であれば)、人は神を信じるであろうし、もっと謙虚になれる。

だが、その”制約”が課すことは、「人間は、客観を捉える表現の制約を課せられている」ことを意味するのではないのか。

また、それこそが客観を捉えることの不可能性をいうのであれば、その不可能性はなぜ人によって差があるのか、ということに問題も出てくる。

ここに関して、僕はまだ明確な回答を得ることができていないわけだが、それはもしかするとすでに誰かが解決している、もしくは明快とは言えないまでも当方の勉強不足でしかないのかもしれない。

ただ、最近はそれの解決を目指して、哲学書や関連書籍を読み漁っているところだ。