自己を対象の認識のみに同一化させることを原因とするアイデンティティの崩壊について
「自己を対象の認識のみに同一化させること」によって、自分自身の自己同一性が崩壊する原因をつくることになるということについて、今回はポストしたい。
「自己を対象の認識のみに同一化させること」とは、具体的にどのような意味なのかについて述べてから、「自分自身の自己同一性を崩壊させること」の意味について続けて述べ、その後にその理由と問題点、回避する方法の考察を行う。
簡単にいうなら、「他人からの期待に答えようとしすぎるあまりに、それが自分自身のキャパシティを超えてしまい鬱な気分になる人」に対する、僕からのヒントのようなものだ。
「自己を対象の認識のみに同一化させること」とは何か?
「自己を対象の認識のみに同一化させること」とは、心理学用語では「取り入れ」と言う防衛機制のひとつとして捉えることができる。
取り入れ(とりいれ、Introjection、ドイツ語: Introjektion)とは、精神分析学の用語であり複数の意味を持つ。 一般的には、周囲の取り巻く世界の行動、属性、他の断片などを、自身が再現しようとするプロセスと見なされる。 取り入れは、投影の初期段階として記されている。
これは後から知った用語であり、僕はそれを如実な実体験として経験した。自分が期待される役割は、相手が自分のことを「こう思うだろう」「こう思いたいと考えているだろう」という相手の認識を自分が予測することで得た役割であると定義することが、自己を対象の認識のみに同一化させること、である。
卑近な例を挙げる。
まず、あなたがAさん、そして相手がBさん。Bさんを仮にあなたの伴侶だとする。伴侶であるBさんは、Aさん(あなた)を「子供の面倒をもっとも時間をかけてみてくれる」という子育て熱心な人だと認識しているとする。
そして、Aさん(あなた)は、「伴侶であるBさんは、自分(Aさん)のことを『子供の面倒をもっとも時間をかけてみてくれる人』だと思っている」という予測を、日々のBさんからの問いかけから判断するとする。
このような、暗黙のうちになされる「相手に対する期待(社会学用語「役割期待」)」は、上記のAさんとBさんのように、「暗黙の前提として辻褄が合っている」場合には大変都合が良い。
Bさんからしてみれば、Aさんは自分が期待通りの日常生活を送ってくれることを期待し、実際にそのような現実が目の前で展開されているからだ。
また、Aさんも、Bさんから自分へどんな期待が寄せられているかを認識することができ、その認識は正しいという状態である。よって、AさんとBさんが日常生活...この場合は「子育て」に関して...認識や実際の行動に齟齬ができることはない。
認識と実際の行動に齟齬が出ない場合には、たとえ少しばかり認識に多少のズレ(「子育てに12時間かけられると思っていたが10時間程度が体力の限界だった」など)があったとしても、ほとんどの場合は問題になることはない。
しかし、ここで一つの問題が隠れていることがわかる。それが、今回挙げている「自己を対象の認識のみに同一化させること」である。
「自己を対象の認識のみに同一化させること」という言葉のうち、「認識のみに」という点に着目してほしい。
たとえば、BさんはAさんに対して『子供の面倒をもっとも時間をかけてみてくれる人』という期待をまったく寄せていないのにも関わらず、Aさんが勝手に「Bさんから『子供の面倒をもっとも時間をかけてみてくれる人』だと思われている」と考えたとしたら、それは本来ないはずの自己のアイデンティティを、勝手に相手から逆に投影する形で得たことになる。
「自分自身の自己同一性を崩壊させること」
ここからは仮説だが、このように、相手から勝手に自己のアイデンティティとなるような役割期待を引き出してしまうことには、大きなリスクがある。
たとえば、僕自身は非常に他人が自分に対して向けるネガティブな感情に対して敏感であるが、それが災いして、「自分が他人から求められていると思い込んでいる役割期待」に押しつぶされそうになってしまったことがあった。
自分自身にプレッシャーを駆け過ぎることで、月並みな表現で言えば、「理想と現実の自分のギャップに苦しんで精神を摩耗した」ということで片付けることもできるが、ことはもっと複雑多岐な原因があるのではないかと考えている。
他人が自分に対して寄せている期待というものは、それが実際に相手からなされているものであれば、日常生活の中で、多かれ少なかれ「実際の言動」として自分自身に表現されていることが多いのではないか。
「自他共に認める」という表現があるが、これは「自分には○○という能力がある」という自信や自負を、他人からの認識や賞賛の言葉、それを前提としたコミュニケーションから確信する形で得ているからこそ可能なことなのである。
つまり、「勝手に自分自身が相手から求められている役割を定義してしまっている場合」は、周囲の人々から自分が「こうあらねばならない」という自己像への期待の言葉やそれを前提にしたコミュニケーションを撮ってもらうことができないのである。
これはつまり、「自分は求められていないのではないか?」「自分への期待値はどんどん低下しているのではないか?」という不安を発生させてしまうのである。
それがある程度の値を超えることで、「自分自身の自己同一性を崩壊させること」に繋がっていくのである。
「自分自身の自己同一性を崩壊させること」とは、「自分が相手から期待されている役割が、実際の日常生活の中ではそれほど期待されていない」ことが、そのまま「自分が必要ない存在である」という過度の一般化によってネガティブな方向に触れることを意味するのである。
「自己を対象の認識のみに同一化させること」の代わりに行うべきことは「自分自身の体系の構築」である。
僕は好んで体系という言葉を使用する。
体系とは、構造主義的な視点でいえば、「変化はするものの構造としては変わらないもの」を意味すると考えている。つまり、伸縮自在な生地の上に描いたイラストが、伸縮と共にその形を異にするような状態である。
もとのイラスト(構造)は変化していない一方で、その伸縮という形で体系(イラストが書かれている範囲)が変化している。
まだ方法論を確立することはできていないが、この自分のアイデンティティ構築のヒントとして、体系とその変化への対応がヒントになるのではないかという直観がある。
自分自身の体系を構築することができれば、身の回りの環境の変化に合わせて柔軟に変化しつつ、構造としては変化しない自己像を構築することができるのではないか。
いまいちヒントにも答えにもアドバイスにもなっていない気がするが、ひとまずここで筆を置いて、今後の課題としたい。